2014年3月16日日曜日

タイの侍、山田長政をふと思い出してみる

アユタヤはバンコクから1~2時間くらいで行ける昔の王朝なんで、デイトリップとしての観光スポットとしても有名ですね。行ったことがある人はご存知だとは思いますが、そこには「日本人町跡」という場所があります。それを日本人が見ても内心「???」の人が多いので、少しこの山田長政について触れたいと思います。


山田長政はですね、1612年に当時のタイ、シャムに渡ったサムライです。1612年と言えばそう、天下分け目の戦であった関ヶ原の直後の時ですね。もっと言うと宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘した年、豊臣家が滅びる大阪の役の2~3年前の時です。

山田長政はその天下分け目で西側の、要は負け組に属していたらしいです、で、なんだかんだあってシャムに渡るわけなんですが、当時は土佐でもこの世の果て、と思われていた時代にシャムですからね、よっぽど遠かったに違いなく、またそう決心させるほど関ヶ原の負け組は相当生きづらい世だったことも同時に伺えます。というか、この時代に船で日本からシャムに渡るってすごい。

ともかく山田長政はシャムにきました。今のチャオプラヤー川を海から入り、上って行くわけですよね。陸の風景こそ違えと、山田長政が同じこの川を400年前に上っていったのか、と思うと、少し感慨深くなるものです、チャオプラヤーを見てると。で、今でいうバンコクを通過してこの川沿いにアユタヤがありますから、そこに到着するんです。

そこにはすでに日本人が100人くらいいたそうで、簡単にいうとアユタヤ王朝から警備員みたいな感じで雇われてたんですね。誰から警備するって、地方の反乱とか、他国からの侵略もあったそうです。で、ここで山田長政が力を発揮するわけです。

言ってもサムライですからね。しかも、江戸中期とかの腑抜けたサムライではなく、下剋上の戦国時代上がりの武者ですから、そりゃ強かった。一方、シャムの反乱とかいっても彼らは象に乗って真剣に戦をしてるくらいだから、 その強さは物凄かったようです。さらには、遠く攻めてきたスペインの連中をチャオプラヤー川で2回に渡って完全勝利したりして、いよいよ王様からの信任もあつくなり、 シャムの王女と結婚、第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)の称号を得るに至ったのです。

この称号は要は陸軍大将、とでもいうのか、何でも戦系で1番偉い位置にあり、通常外国人でこの称号は得られないくらいの、なんともすごい称号のようです。その内、信任を得ていたソンタム王が亡くなり、その後の後継者争いに巻き込まれて毒殺されてしまうんですが、同じ日本人で同じタイにいる人間として、誇らしく思える人物なのであります。

近年、映画にもなったので、早く見たいところであります。山田長政を知ってから、またアユタヤを観光されるとまた違った旅となりそうですね、山田長政、おすすめです!





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